生誕の災厄 / E.M.シオラン

「生誕とは、一つの災厄である」という考えの下で書かれたアフォリズム集
お気に入りの内、特に鳥居ファンとして反応したものをメモ。
この本と鳥居さんは別に何の関係もないけど、
妄想月報「ま、まて、早まるな」(はてなでテレビの土踏まずの紹介記事)に
通ずるものが有るかもしれませんし無いかもしれません。



どんなに狡智にたけた拷問係でも、とても着装の及ばぬ夜というものがある。そうした夜から辛うじて脱出したとき、私たちはぼろ切れになっている。痴呆になっている。記憶もなければ予想も持たぬ、錯乱の人間になりさがっている。自分がいったいどこの誰なのかさえ分らないのだ、そしてそのとき、昼はただ無益なものと見え、陽の光は邪悪な、闇よりもなお息苦しいものと映る。(P44)


いつも、最悪のものの襲撃を怖れつつ生きてきた私は、なにごとにつけ機先を制するように努めることにした、災厄が襲ってくるより先に、こちらからその災厄のなかへ飛び込むのである。(P52)


毎日、つぎのように繰り返すべきである。「自分は、地球の表面を何十億と匍いまわっている生きものの一匹だ。それ以上の何者でもない」――この陳腐な呪文は、どんなたぐいの結論をも、いかなる振舞い、いかなる行為をも正当化する。遊蕩も、純潔も、自殺も、労働も、犯罪も、怠惰も、反逆も。

……かくて、人間は各自、みずからの仕業にそれ相応の理由を持つことになる。(P158)


たったいましがた受け取った電報は、読むうちに果てしがない。私の自惚れが、無能ぶりが、残るくまなくそこに列挙されてある。私自信がかろうじて気づいた程度の悪癖が、ちゃんと指摘され、公表されている。なんという千里眼、なんという細かな眼の配りようだろう!そのいつ終わるとも知れぬ告発状のどこを見ても、発信人を特定できる手がかりはない。いったい何者なのだ?第一、こんな電報などと、息せき切った、突飛な手段に出たのはなぜなのだ?かつて人間が他人にたいして、これほど不機嫌をあらわにしながら、峻烈な直言をぶちまけた試しがあろうか。名を名乗ろうとしないこの全知の法官、私の秘事をすべて知り抜いたこの卑劣漢は誰なのだ?どんなに酷薄な拷問係でも、時には多少の情状酌量ぐらいしようというのに、まったく酌量の余地なしと突っぱねるこの宗教裁判官は、そもそもどこから湧き出てきたのだ?この私だって道に迷うこともあって当然だ、いくらかは寛容を求める権利があろうというものである。おのが欠点のバランス・シートを前にして私はたじろぎ、怒りに息をつまらせ、身もふたもない真実の行列に我慢がならなくなる。……呪わしい電報め!私は電報をきれぎれに裂き、そこで目が覚めた。……(P264)


ある種の未開人たちのあいだに、広く行われている信仰によると、死者たちは生者と同じ言葉を喋るけれども、違う点をいえば、その言葉はすべて、かつて用いていた時とは正反対の意味を帯びているのだという。たとえば、大きいは小さいを意味し、近いは遠いを、白いは黒いを意味する。(P273)